二匙

 


 退院しても、騒動は嫌気が刺すほどぼくを付き纏った。
 今日は急きょのライブが入り込んだ。出演予定だった知り合いのバンド、『マスタアド』のメンバーが事件を起こしたらしく、そいつらの穴埋めのために、ぼくらのバンドが出演することになった。通りでマンションの前に報道陣も記者もいないわけだ。
 コンビニでジュースを買い、飲みながらのんきに歩いていると、マネージャーからの電話が鳴り響いた。
「早くきなさいよ」
 なよなよ成分が多めに含まれた口調に催促される。
 KiLに変身するには結構な時間がかかる。メイクやヘア、衣装、それぞれの担当者が入れ代わり立ち代わり群がってぼくをこねくりまわし、KiLが完成する。
 電話を切り、ジュースを一気に飲むと、炭酸成分が喉の奥を過剰に刺激して、軽くむせた。
 暑い。
 メガネを外し、キャップを脱いだ。こんなの着けたところで意味はなかった。変身してないぼくは、ただの一々雫祈流イイダキルという人間にすぎないのだから。
 ライブハウスに着くと、ガラス張りの扉の前で、ちょうどソルとすれ違った。ぼくはソルの赤い眼球をつかまえようと、
「ソル」
 と名を呼ぶ。
 ソルは立ち止まり、抑揚のない眼球にぼくを宿らす。
「トモカ、どこに行ったか知らない?」
「聞いてるの?」
「ソル」
「なにか知らない?」
 ぼくは立て続けに質問をぶつける。
 ソルは、
「さあね」
 と、ドアにかけた手を押した。が、なにかに気付いたのか、振り返った。
「今日、命日だろ」
「めいにち?」
 ぼくは首をかしげ、 
「誰の?」
 と聞いた。
「知らないの?」
「知らない」
「実家にでも帰っているんだろ」
「実家ってどこ?」
「知らないの?」
「……知らない。どうしてトモカはなにも言ってくれないんだろ」 
「知るかよ」 
 どうして、ソルは知っているの?
 そう言いかけたときにはもう、ソルと僕との間に薄ぺらい扉がへだたれていた。控え室に入ると、バンドのメンバーが全員そろっていた。
「マスタアド、今度はなにしたの?」
 マネージャーがぼくから荷物を剥いで、ぼくを椅子に押し込んだ。メイク担当者の餌食になりながら、マネージャーのひげ面から発せられる、なよなよした返事を拾う。
蟻砂アリザ君が高校生に暴行したみたいよ」
「本当?」
 信じられなかった。ケンカなんかするやつじゃない。もし、それが事実なら、そこに向かわせるなにかがあったとしか思えない。マスタアドのほかのメンバーは、よく問題を起こしてはワイドショーや雑誌を賑わせていた。あるコメンテーターは、そういったことを「話題作り」と評していたくらいだ。マスタアドのやつらが小細工などしないのはわかっている。
 ぼくらはソツなくステージをこなしていく。そして、もうすぐソツではなくなることを感じていた。
 この疼きはなんだろう。
 ぼくに向けられた爪には、ご丁寧にマスタアドのマークが施されていた。
 こんな小細工しやがって。
 ぼくはそいつの爪先を噛んだ。
 苦味はぼくの行く手をこばみ、ぼくを許さない気がした。
 この痛みはなんだろう。
 記憶がぼくを呼んでいる。





 家に帰ると、テーブルの上にアルバムがあった。トモカがきていたのだろうか。なつかしい気持ちに誘われ開くと、子どものころのぼくとソルが写っていた。
 同じ顔、同じ服。あれ、これはぼくだっけ? ソルだっけ? 同じおもちゃ。同じ泣き顔に同じ笑い顔。
 このころソルはまだ笑っていた。
 トモカも楽しそうに笑ってる。
「ママみたいな看護師さんになるの」
 確か、そんなことを言っていたっけ。
「ねえ、ソル。たまに実家に帰ってみようか」
 アルバムをめくりながら聞いたが、ソルの返事はなかった。
「ねえ」
 振り向くとソルがいた。赤い右眼がぼくを刺した。




 バンドの活動ぺースは異常だともいえる。ライブは、全国中のホールを埋め尽くすほどの緻密なスケジュールが組まれていた。
 薬を飲んだ理由なんて、いくらでも見つけられそうだった。ぼくを罵る週刊誌から引用したっていい。
 誰にわかる?
 ソルは右眼だけが赤い。ソルの眼の奥の記憶に、どんな映像が焼き付いているかなんて、誰もわかっちゃいない。
 ……このぼくもだ。
 ぼく自身の目をくり抜いて、ソルの眼球をはめ込んだとしても、ソルが右眼で最後に見たものなんてわかりゃしない。
 事務所での打ち合わせを終え、何気なくテレビをつけると、マスタアドが映っていた。画面に貼りつく解散の文字。「 !?」の記号は、どこにも見当たらない。リモコンをかたむけ、ボリュームを上げた。
 内容は違う色へと進行していた。児童養護施設で育ったという蟻砂の過去をさかのぼり、誰の記憶からも薄れかけているような事件に到達する。幼児連続殺人事件だ。事件や犯人の名前などは伏せてあったが、すぐにそれとわかる。殺人犯となった男の息子に当たるのが、蟻砂だというのだ。
 当時のニュース映像に切り替わった。
 歩きながら淡々と解説するレポーターが、ボロい平屋の前で止まる。
「この家に幼児を連れ去り、暴力を振るい、容赦なく殺害を繰り返し、現在わかっているだけで、一人の女の子、二人の男の子の、三人の幼い命が奪われています。救出された幼児は、意識不明の状態が続いています」
 テレビの画面に犯人の顔が映った。
 そのとき、誰かが叫んだ。わめき声に近いような、





 ……叫び声が響く。





 ……叫び声が響く。






 ……叫び声が……






 ぼくから発せられている?







 ぼくは、ひとしきり張り叫んだあと、腹の底からわだかまった闇を嘔吐した。
 目に激痛が走る。
 両手で両目をふさいだ。
 ゆっくりと手のひらを広げると、左の手のひらだけ血におおわれていた。