一匙
手触りはそう悪くはなかった。
同情心のない鋭利なとげがぼくの指先を噛んだ。裂ける痛みの中に、生の実証を得た。
なんだ?
生きている?
指先を確かめるが、闇に噛まれたあとなどなかった。
それより。
身動きができない。腕に絡み付いているチューブをたどると、透明な液体が入ったパックと繋がっていた。
闇はぼくを吸収せずに消えていったのか。
自分の肉体を持てあまし気味に、パックに貼られたシールの印字を読んだ。
「イイダ キル」
ぼくの名だ。
声に出したつもりだが、唇が動いているだけなのかもしれない。いや、心がつぶやいているだけなのかもしれなかった。パックの液体は三分の一ほど残っている。チューブを折り返す。細い線を下ると、小さな空間があり、液体がポタリポタリと落ちている。落ちた液体は、またチューブに飲み込まれ、ぼくの体内をめぐる。規則正しく落ちゆく滴に、いらだちを押し付ける。あるいは、意識が飲み込まれているのは、安らいでいるのか。
呼吸の中に、ため息をそっと忍ばせた。
また「一々雫祈流」に戻らなくてはならない。そんな懸念の上に、「KiL」という名の「もうひとりの自分」の骨格が押し寄せる。
視線を天井に向けた。薄青色のカーテンを吊るレールの足が、触手のように天井に張り付いている。
ゆっくりと目を閉じた。
闇を照らすいくつものライト。光の先は重なり合い、濃い霧となって漂っている。ぼくを触ろうとする手が見える。黒い爪、目ん玉の指輪が付いた指、指、指……が、ぼくを闇の中に引きずり込もうとする。
おまえらは誰だ。
ぼくになりたいのか?
黒髪と黒いアイメイク、口のピアス、舌のピアス。ぼくを真似るミラーたち。
触手がぼくの手を蝕む。
振り解くことができない。
ぼくは誰だ。
触手がぼくを噛む。
……さん、
……一々雫さん・・・
目を覚ますと、看護師がいた。
「大丈夫ですか。ずいぶんうなされて」
看護師はタオルでぼくの額を拭った。ぼくは呼吸を整えカーテンレールの足を睨んだ。
「体も拭きますね」
連星が彫られた胸元が開 く。
「なんにちだ」
「え」
「ぼくがここにきてなんにちが経った?」
「ふつかです」
「……ふつか? 新聞……新聞見せて」
ぼくの呼びかけを無視して、看護師は体を拭いている。
「ねえ」
返事はない。たまらず看護師の腕をつかんだ。同時にぼくの胸に涙が落ちた。
「トモカ」
トモカはなにも言わず、再び体を拭き始めた。ぼくは腕を離した。
静かな時間が流れていた。
胸が衣服に覆われる。固い生地の下で、心音が規則的に揺らいでいるのを感じた。
「新聞をお持ちしますね」
トモカは口端に笑みを浮かべ、部屋を出て行った。
人気ビジュアル系バンド『∽PRAY 』
ボーカルの『KiL』自殺未遂
大げさな見出しの隅に小さく「!? 」のマークが記されている。
記事によるとぼくは、薬物依存症であり、過剰摂取により意識を失い倒れていた。らしい。連絡の取れないことにマネージャーが不審を感じ部屋を訪れると、ベッドに横たわるぼくがいた。らしい。そばには多量のトランキライザーとアルコールが転がっていた。らしい。病院に搬送されたが命に別状はない──――らしい。
いつものように、蔑む視線をぼくに向けて、ソルが聞いた。
「どう?」
「なにが」ぼくは新聞を畳みながら返事をする。
「気分だよ」
「おまえは?」反対に、ぼくが質問をした。
「俺?」
「ぼくが死んでもおまえはなんとも思わないんだろうな」
ぼくは四分の一に畳んだ新聞を見た。いや、見られていた。KiLに。四分の一から覗く、ぼくであってぼくではない、冷ややかなKiLの視線に。
ソルはぼくになんか感心のないように外の闇を見つめ、言った。
「やめたいの?」
ぼくはまた、呼吸の中にため息を忍ばせた。ソルの前ではいつもこんなふうにして、さりげないため息を混ぜた、ぎこちのない呼吸をしている。
やめたいのかな……
「おまえの代わりなんかいくらでもいる」
ソルに在るもの。
無だ。
ソルは人形みたいに無表情で、心が空洞なのだ。ぽっかりと開いた穴の向こうに現実が揺れる。ソルの心を素通りし、ぼくは立ち止まり振り向いて確認する、ソルには無が在していることを。
「ソル、おまえ、ぼくの指を噛んだか?」
「指?」
「いや、なんでもない」
ソルはぼくの指先を見て言った。
「俺だったら酷薄に噛み千切るね。おまえのダダリオ臭え指」
人形は、社会に作られ踊らされている造形物のぼくのほうか。
初めはおもしろかった。黒装束のイメージの中でバンドを作り上げた。ぼくはKiL像を演じているだけにすぎない。着飾ったぼくだけが取り残されている。
ぼくはいったい、なにになりたかったのだろう?
KiLという仮面の下で、ピックを噛みくだく。その残骸を求めるミラーたちをぼくは蹴りたい。ミラーの髪を引き千切り、まぶたを切り取り、ピアスを削ぎ、爪を全て剥がしたい。それを奥歯で噛み砕き、おまえたちに吐き出してやる。
だが、ぼくには爪を拾う指がなかった。
「やめない」
ぼくの言葉に、ソルは赤い眼球をぼくに向けて、冷笑さえ浮かべず(いつだって浮かべないが)、蒼白な顔で、
「そう」
とだけ言い、部屋から消えた。
布団の上に、ソルが吐き出したぼくの指先が見えた。
ぼくは所詮、死ぬ覚悟も、ソルから逃れる勇気もないのだ。
ぼくに在るもの、ソルだ。
一匙