四匙

 


 どれくらいの時間が経ったのだろう。
 暗闇の中で目が覚めた。頭が破れているんじゃないかと思うほど痛い。顔の感覚がおかしい、そうだ。目をぶつけたんだ。そう気付いたらどくどくと痛みが走った。触れようとしたが、両手を後ろで縛られているようだった。足も縛られている。そういや呼吸もしづらい。口はテープで塞がれているみたいだ。冷静になればなるほど、恐怖が増していった。ここはどこだろう。押入れ? 見回すと、ひとすじの光りが入り込んでいた。
 ガラガラと戸の開く音がして、ピシャリとそれは閉められた。乱暴に鍵を閉める音がいらだちを伝える。
 あの男が帰ってきた。
「まったく、俺が出かけた隙にどうやって逃げ出したんだ」
 荒げた男の声がして、どん! となにかが叩きつけられる音がした。ぼくは芋虫みたいに必死に体をぜん動させ、光りの入り口へ顔を近づけ、部屋の様子をそうっと覗った。
 驚いて声を漏らしそうになった。
 そこにいたのはソルだった。ぼくと同じ格好をした同じ顔の……。
 ソルはぼくを探しに家を出て、公園をたどり、基地まで様子を見にきたのだろう。出かけた男は、偶然に弟を見つけ、ぼくが逃げたと思い込んで、ソルを捕まえたに違いない。
 男は近くにあった棒を持ち、ソルの頭を何度も叩いた。
 ソルは、痛い! 痛い! どうしてこんなことするの! と悲鳴を上げた。男はタオルをソルの首に巻き絞めつけた。悲鳴はうめき声に変わる。みるみるうちに顔が血で染まっていった。



 助けなきゃ…………



 怖い……。



 体が動かなかった。ふすまの裏に粘着しながら、どうすることもできない自分がいた。うめき声が途絶え、ソルは白目を向いた。体がビクンビクンと痙攣している。
 ぼくは目を逸らし、うずくまった。
 やけに静かだった。ソルは死んでしまったのだろうか。体の震えが止まらない。男に見つかってしまうんじゃないだろうかと思うほどのひどい震えを必死に押さえつけた。
 タバコの臭いがする。
「どうしてこんなことするのだって? 聞きたいかい? おじさんには子供が生まれたんだよ。待ちに待った、やっと出来た子供でねえ。男の子だったよ。おじさんの名前から一字取って、有咲ゆうさくって名前を付けたよ。病院の庭に花がたくさん咲いていたんだ。きれいだったな。
 嫁に似てかわいくてねえ。だけどねえ、有咲の血液型を知って俺は愕然としたね。俺からは産まれないはずの血液型なんだ。俺は嫁を問い詰めた。嫁も驚いていた。俺は有咲に包丁を突きつけて、こいつの父親は誰なんだ? って聞いた。相手は俺の弟だったよ。嫁は、誰にも言わないで、私たちの子として育てたい、って言うんだ。
 そのつもりだったよ。でも同じ屋根の下に弟は住んでいるんだ。弟は自分の子だと知らず、有咲を抱っこしている。有咲もなにも知らず、にこにこして。それを嫁がほほえましく見ている。
 ……俺はなんだ? あの家にいる俺はなんなんだ?  
 俺はいまだに疑っている。あのふたりは今も俺のいない隙にってな。もちろん俺は誰にも言わない。これは復讐だ。長い年月をかけてな。有咲は殺人者の子として苦しむんだ」
 男の笑い声が聞こえる。
 扉が閉まる音がして、くぐもった異音とシャワーの音がした。
 ずいぶん長い時間、お風呂に入っているんだな、とぼくは考えていた。
 やがて、おじさんは部屋に戻り、ごそごそと音を立てた。なにをしているのだろう。気になって、覗き見した。
 半透明の袋に入った、バラバラになった弟がいた。小さな指や、どの部分かもわからない肉の断片が見えた。丹念に洗ったのか、それらは人形にも見える不自然なきれいさを纏っていた。だが人形ではない。切り刻まれた肉が、弟ということは疑いようのない事実だった。視線を感じ、見ると、袋詰めにされた顔がぼくを見ていた。それは、ぼくの顔でもあった。
 弟はぼくの代わりに殺されたのだ。
 吐き気がこみ上げて、そばにあった布団に顔をうずめて嘔吐したけれど、塞がれた口の中に、わずかな胃液が逆流しただけだった。行き場のない、気味の悪い苦味を、また飲み下すしかなかった。
 それからどれくらい経っただろう。男が出かけても、寝息が聞こえたとしても、ぼくは体を動かすことも眠ることもできなかった。ただただ、暗い闇に吸収されないように、懸命に呼吸をくり返した。
 次に聞いたのは多人数の足音だった。どたばたと格闘する音がし、男が捕まったことが理解できた。ぼくにはもう、助けを求める声さえ出なかった。
 ぼくは唯一の生き残りとなった。断末魔の映像を左眼の奥に隠し、義眼で封印した。忘れることでしか生きられなかったのだ。





 ソルは、本当に死んだのか?



 現実はいつだってぼくを孤独にさせる





 頭が痛い
 破裂してんじゃねえかな
 ゲロとか出てない?
 きのう食ったサフランライスとか出てない?
 ぼくは頭のてっぺんをさすった。
「復讐のための犠牲者か」
 蟻砂がため息と同時に言葉にした。
「アリスナ」
「ん?」
「ソルは本当に死んだの?」
「……すまない」
「どうしておまえが謝るんだよ」
「俺の父親がしたことだ」
「あの男は本当の父親じゃないんだよ。ぼくが見たことを世間に言えば」
 蟻砂は首を振った。
「犠牲を味わったことで今の俺がいる。だとしたら、そう不味くはないだろう」





 ソルの命日に実家に帰った。ソルと過ごした部屋の、ぼくたちの私物はほとんど処分されていて、やけに広く感じた。
 あのころ、なにもかもがおそろいだったのに、鏡はひとつだけだった。部屋の真ん中の位置に、全身が映る大きな鏡が置いてあった。
 クローゼットを開け、鏡を探した。
 死に向かうソルを隠れて見ていたことが、自分の枷となっていた。鏡の前に立つと、ソルがそこにいるようで、ソルに「どうして助けてくれなかったの」って責められそうで、怖くて、鏡をしまってほしいと親に頼んだんだ。
「あった」
 鏡を引っ張り出して、壁に立てかけた。




 鏡の中のソルは言った。

 見えることがすべてじゃない
 感じるものを考えればいい
 おまえは痛みを知っている
 それを理解できる光りがそばに在ること
 忘れないで
 
 


 そうだな、 宙流ソル
 光りはいつでも道を照らしてくれる
 今までも
 これからも





 鏡の中から霧があふれ、ソルとぼくを包んだ。そこは暗闇ではなく、むしろ明るく白い闇だった。霧が触手のように伸びてソルを覆っていった。
 子供のころのソルがいた。
 触手の先がとげのようになり、鋭くなった矛先は、ソルの手足や体を噛んでいった。ソルが手をかざすと、千切れた眼球が、ポトリと落ちた。 
『祈流。世界を見せてあげる』
 ソルは指先のない手のひらを差し出した。
 触手が眼球をつかみ、ぼくに近づいてきて、ぼくの視界を塞いだ。
 目が熱くなるのを感じる。
 そっと目を開けると、ソルの姿は見当たらなかった。霧の密度が少なくなっていく。漂う霧のひとつぶひとつぶが、はっきりと見える。ぼくは手の中になにかの感触があるのに気付いた。それがなんなのかを、見ずともわかっていた。 
 澄んだ空気の中、ぼくは立っていた。
 トモカがぼくの背中越しに映った。いつもの悲しげな表情で、だけどどこか穏やかに見えた。
「トモカ」
 声に出したつもりだが、唇が動いているだけなのかもしれない。いや、心がつぶやいているだけなのかもしれなかった。
『やっと思い出してくれたのね』
 声が響いた。
 振り向き、トモカを探すが、どこにもいなかった。
 ぼくは手の中の赤い義眼を酷薄に噛み千切った。
 そう不味くはない味がした。




  四匙 ′I scream SPOON′終