夢見る鼻血_4
静寂の夜にも似た、色をしていた。凛とした虹彩の中に、優しさがあることを知った。「サム」と呼ぶ声と、時折見せる笑顔に、心が締め付けられる。
それはきっと、『マスタアド』の『ユガ』に憧れていたから。
あたしはまだ夢を見ている。
そんなあたしを、ママは笑ったけれど、パパだけは味方をしてくれた。
「いつかきっと会えるよ」
パパは無責任に言って、無責任に消えた。
仕事が忙しいパパは、毎日の帰りが遅かったけれど、休みの日は家族の時間を大切にしてくれていたように思う。口うるさいママをジョークで笑顔にできるから、パパがいるときは家の中が穏やかだった。
あたしの十八歳の誕生日には早く帰ってきてくれて、三人でパーティをした。食べきれないほどのご馳走と、限定コスメのプレゼント。疑うことのない幸せを過ごして、すぐだった。
いつものように学校から帰ったら、ダイニングのフローリングにぺたんと座り、少女のように泣いているママがいた。パパはいなかった。いないのはいつものことだから、当然といえば当然なんだけれど。家族でしかわからない違いを感じて、部屋の中を見回した。
パパが、いた?
テーブルには飲みかけのカップ。コーヒーを飲むのはパパだけで、出されたものは絶対に残さないのに。それほど重苦しい空気があったことを証明するかのように、離婚届の用紙が置かれていた。
「パパは?」
「出ていったわ」
書斎は、荷物がすべてなくなっていた。初めから誰もいない部屋だったのかもしれないと錯覚する。なにも無い部屋を見て、なにも感じなかった。驚きとか寂しいとかなく、なにも。
ダイニングに戻り、ソファーに座った。パパが座っていた温もりなんて、とうにない。離婚届の筆跡と冷めたコーヒーだけが、パパのかろうじて残骸。
「原因はパパの浮気だったのよ。長い間、我慢してきたわ。毎日残業なんて言って、本当は向こうのお家にいたの。相手に子供ができて、パパ、面倒を見たいって。どうしよう、すみれ。もうママにはすみれしかいない。ママに必要なのは、すみれだけなのよ」
聞きたくないけれど、あたしは黙っていた。ママは、涙と鼻水ごちゃまぜの顔をしていた。もう化粧なんか溶けている。
聞きたくない。
原因なんかあたしにはどうだっていい。あたしには関係ない。新しいティシュ箱の蓋を開封してママに押し付けた。
今のママに必要なのは、ティシュだ。
その日から、パパに会うことはなくなった。パパはあたしを捨てたんだ。あたしに見せる仲の良さは、全部仮面だった。結局パパもママもずっとあたしを騙してた。そう思わずにはいられなかった。
泣いてばかりいたママが、泣かなくなるのにそう時間はかからなかった。彼氏ができたからだ。遅く帰っても厳しいことを言わなくなった。かえってそのほうが都合がいい感じさえした。
周りは進学やら就職やらで慌ただしい中、アルバイトのシフトを増やした。卒業後は部屋を借りると決めた。
特に趣味もなく平穏な毎日。今までもこれからもきっと。やりたいことも特に見つからない。アルバイト先から正社員を打診されたけれど、これでいいのかとぼんやり考えつつ。
帰り支度をしていると、休憩室から会話が聞こえてきた。夢見町の話をしている。ぼんやり聞きつつ。
ママから「彼氏が来る」という連絡がきて、帰路を消失したあたしは、
「ライトアップイベントがすごいのよ」
という話に加わって、行くことにした。
シンボルの大きな蝶を目指して歩いているつもりだった。確かに、夢見駅から蝶が見えた。その方向に向かってきたはずだ。
それなのにあたしは再び、迷子になっていた。