夢見る鼻血_6
結局、ライトアップイベントは行かなかった。気付けばライブ会場の中──。そこはとても暗い夜の箱だった。
誰もがステージを見つめていた。誰もが同じ期待でここにいる。ピアノのメロディーが響くと、ざわめきは沈黙へと誘われた。
ひとり空を見上げる。
しんとした夜に光が降っていた。すぅっと線を残して星の粒が降りてくる。箱の窮屈さはなくなり、果てのない夜が広がっていく。儚いメロディーに心を預ける。
一瞬、音が止んだかと思うと、神々しいほどの光が溢れ、ギターの激しいサウンドが静寂を切り裂いた。
歓声が上がる。
ステージから届く声はあたしを貫いた。ボーカリスト・ユガの歌に堕ちてゆく。
蝶のイベントが最終日だったことも知らずに。
あれからあたしの生活は大きく変わった。ライブに通うようになって、友達もできて、クローゼットはロック調のファッションに占められていった。とはいっても、全身黒に染まることはできなくて、色を取り入れた。浮いていたと思うけれど、そのおかげで、店長に声をかけてもらってスタッフの一員になれたんだ。
蝶がライトを浴びて、窓の外いっぱいに広がっている。今にも羽ばたきそうな蝶は、捕まえられそうなほどの近い距離でビルに止まっている。線のひとつひとつは繊細で、羽と羽の真ん中の部分は文字のようだった。店長の解読不可能なタトゥーを思う。
「名前はないんですか?」
“あの蝶”
誰もがそう呼んでいた。
「赤」
「赤、ですか」
ユガさんは赤に染まりながら、
「どう? この部屋」
と聞いた。
「とても気に入りました」
赤に染まったあたしが返事をする。きっと返事までもが赤い。
カーテンは赤を閉じ、目の前にはミナの望んだ世界が構築される。つやつやのフローリング。ガラス張りの壁。ふかふかのソファー。
ここはお店の撮影スタジオだ。
ミナと家探しをしていることをユガさんに伝えたら、「月イチしか使わないから掃除してもらえたら助かる」と言われて、仕事終わり、想像以上のマンションの一室にいた。
ミナに報告したとき、
{マスタアドの世話にはならない)
{ふたりで決めようよ)
{がんばろうよ)
なんて、乗り気じゃない返事がきていたのに。
通話をしながら部屋を見せると、
「え、本当に住んでいいの?」
とはしゃいでいた。こんなに感情があふれるミナを見るのは初めてかもしれない。
「いいよ」
そうユガさんが答えると、
「ありがと!」と言ったあと「……ございます」と付け足していた。ミナはよほどテンションが上がっているみたい。
いろんなことが少しずつ叶っている。
この三日間、ユガさんとお仕事をして、仕事終わりには一緒にご飯を食べて、ふと、気付いたんだ、あたし、レイのことを考えてなかった。
ユガさんがレイ以上の存在になっている?
……
駅までの道を一緒に歩いた。
「ink_canって、なんですか」
自動販売機には見たことのないジュースが並んでいた。
ink!ink!drink!ink!ink!
視覚認知を狂わせる自動販売機。
「ここにしかない飲めるインク」
「え、まずそう」
そう言うとユガさんが笑った。
「飲んでみる?」
ちょうど電話が鳴って、ユガさんはコインをあたしに渡して、ここから離れた。インクの缶をふたつ買って振り向くと、知らない男のひとたちに取り囲まれていた。