夢見る鼻血_7
午後二十一時、攪拌されるインク。その味をあたしは知らない。
甲高い音とともにアスファルトを跳ねるink缶がひとつ。
一瞬だった、なにが起きたのか把握できていない。知らない男のひとたちが立ちはだかり、連れ去られそうになって……だけど、あたしの口を塞いだ人が、目の前でうずくまっていて。
あたしを守るようにユガさんがいる。
現実ではない気がした。あたしは今、ドラマとか映画で繰り広げられる格闘シーンを見ているのだ。ヒーローは、かっこよくて、強くて。誰も敵わない。次々と悪役が倒れていく。
道の向こうに白猫が登場する。
すずめさんがふわりとやってきて、座る。
のん気に手を舐めている。
あたしも猫だったら、同じことをしているのかもしれない。
不思議と怖い気がしなかった。
ナゼナノダロウ
空が藍色だから。
タユタウヨゾラ
その安堵に満ちた色を、夢見るあたしを、猫は見ていた。
「ニャー!」
すずめさんの声で現実の色が塗られる。自動販売機の照明を受けて、輝く光りは美しくも見えた。それがナイフの先端だと気付いても。
まるでスロモーションのように流れていた。ゆっくりと近づいて、切っ先は……
ユガさんの手のひらを貫いて
……あたしの目の前にあった。
現実の時 が動き出す。
一目散に男のひとたちが逃げていく中、ただひとり、まだ止まった時間に取り残されていた。
ユガさんが、自分の手のひらからナイフを抜き取って、その人に渡していた。なにかを言っているようだった。男の人はためらいながらも去って行く。
入れ替わるようにして自警団のミケがくる。
「怪我はないですか、すみれさん」
「あたしは大丈夫です。ユガさんが手を」
「めずらしいっすね、ユガさんが怪我するの」
「油断した」
指先を伝い、インクのように、ぽつ、と落ちてゆく。地面に産まれる、小さな赤い花と、白い猫。
あたしはハンカチを出して手を包んだ。
「汚れるよ」
「あたしのときだって、やってくれたじゃないですか」
冷たい指先に触れるとき、記憶が重なる。何度も重なってしまったら、もう想いは閉じられないほどになる。それは少し怖くて、きっと、苦しい。
「車呼んで家まで送ってやって」
ユガさんがミケに言っている。
「大丈夫です、電車で帰れます」
「あいつら、またなにしてくるかわかんないから」
「わかりました」
「巻き込んでごめんな」
口端にかすかな笑みはあったけれど、どことなくつらそうだった。無理もないけれど。
テーブルに、inkの缶がひとつ。
帰ってから気付いた。
もうひとつを置き去りにしてしまった。