夢想のストリングス1
暗闇の中、両手を捕らわれていた。
振り払っても振り払ってもそれは僕を縛り付けた。
どこからか光りが射した。
僕から影が生まれた。
……とても、とおい。
影がかすかな産声をあげた。
……そこにはいられない。
とても遠くて。とても。
尊いんだ。
光りが僕と闇とを喰い、影は、しっぽを切るようにしてどこかへ去って行った。
窓を開け放したヒルダが振り返る。
「おはよう。昨日の雨が嘘みたいだよ」
『おはよー』
甥っ子たちが両腕にしがみついていた。揺さぶられながら、おはよう、とあいさつする。
強い日射しが確かな朝を伝えてくる。風は無く、鳥は鳴いた。
「降りてこないから、起こしにきたんだけど。また具合悪かったりする?」
ヒルダの言葉に、慌てて時計を見る。どうやらアラームを消して、また寝てしまったらしい。
全然健康、僕は弱々しく鳴いた。
「カナが寝坊なんて珍しいね。食事は出来てるから。イングヴェイ・マルムスティーン並に用意しないと」
ネガの嫁らしく、速弾きギタリスト単位で律動してくる。
夜遅くまでビデオを見過ぎた。テーブル上に散乱する干からびたおつまみと、転がる酒瓶が恨めしい。イングヴェイ/秒で準備を済ませ、携帯電話を探すと、電池が切れていた。めったに酔うことなどないのだ。罪なき芋焼酎を立て直す。充電には時間がかかる。使い物にならない携帯電話を諦めて、下へ降りた。
通常時間には家を出ることができた。商店街を抜け、中華屋を通り過ぎ、花屋の前にくると、歩行者信号が赤のフェルマータを指示する。店主が笑顔であいさつをしてくる。お辞儀を返すと、その足元で揺れる花びらも僕を見送っていた。
駅前に着くころには、汗が首筋を伝い落ちていった。ポケットに手を入れた。在るべきところにハンカチはなかった。慌てて用意をしたので、忘れてしまったらしい。
いつもの駅前の風景に、英国車が止まっていた。この時間帯、この風景に割り込むのは珍しい。墨色で統一されたパノラマに目の覚めるような赤いボディーは、いやというほど存在を主張している。後座席の窓が開いて、顔を出したのは、まだ小さい子ども……レイだった。他人のふりをして通り過ぎるには手遅れだった。僕は思わず立ち止まっていたし、名前を呼ばれて返事もしていた。
「乗れよ」
開いた窓からガンガンに効いた冷房が漏れて、僕の皮膚を撫でていく。
「これから仕事に行くんだけど」
断る姿を主張すべく腕時計を見るが、あるべき場所にそれはなく。バッグの中を覗いた。予備の時計が入っていたはず。
「今からココが運ばれた病院に行く」
断る理由はどこにもなくて、僕は赤に飲み込まれた。
黒いシートに背を滑らせると、アクセントの木目が金細工のような気高さで僕をもてなした。
広い室内にはグラムメタルが流れている。レイが運転席に座る若い男に話しかけた。夜守ヶ 丘住人たち独特の言語だ。たぶん、僕を紹介している。そのあとレイは、
「毛並みのいいほうの友達」
と言い、彼の名前を教えてくれたけれど、発音が難しくて聞き取ることができなかった。
「ノアでいいですよ。よろしく。ゴールデンレトリバーに似てます。自称ですけど」
笑顔のノアと握手を交わす。赤みのあるゴールドの髪は、顎下ほどまで伸び、自称といっても的を得ている。体付きはがっしりとして鍛えられているのがわかる。年齢は十九歳だという。
「日本語はあまり上手ではありません。カナは柴犬に似ていますね、眉毛があるやつです」
隣に座っているレイが、すぐ犬に例えるんだよなぁと呟いている。
「柴犬、好きだから嬉しいよ」
そう答えると、「柴犬はかわいいですよ」と目を細めた。よほど犬が好きなのだろう。
「レイは何犬なの?」
と聞いてみる。ノアは、そんなの決まってる、といった感じで即座に答えた。
「ロットワイラー」
「いいから早く行けよ」
小型のロットワイラー犬が吠え、車はすぐに発進した。穏やかな雰囲気に安心した。緊急を要するわけではなさそうだ。
「カナは渋谷詳しいから、イトウ医院わかると思うってケイが言ってた」
「イトウ医院か。案内するよ」
「病状は大丈夫だけど、一人にするのは不安だから、懇意にしている先生に頼んだって言ってた。ケイ、昨日の夜、カナに電話したんだけど通じなかったんだって。家に電話をする時間帯でもないしってケイは困っていたらしい。ねえ、懇意ってなに?」
レイとの会話中に時々入る質問だ。「親しい間柄ってことだよ、第三者に伝えるときに使うかな」そう説明すると、ふうん、と言葉の意味を吸収した。