まだ見ぬ時刻(とき)_1

 


 渋谷109から道玄坂を上がる。
 隙間なく建つビルは、高々とそびえ空を遮る。不規則に区切られた空を、コバルトブルーの絵の具で満べんなく塗った。それをよく乾かした後、筆にたっぷりと含ませたホワイトで描く雲。
 太陽は真上に位置して雲の表情を支配している。
 絵画天は感傷的に僕の足元に影を忍ばせた。

 配達業者の車が、車道に停車した。
 スペースを見つけてタクシーが停まり、客を降ろし、また車道へと戻っていく。
 響くクラクション。
 点滅信号の鼓動。
 携帯電話にしがみつきながら急ぐ、ツインテールの擦れる厚靴の底で、
 
 小さな虫が窒息した。





 ネクタイを緩めて襟元のボタンを外した。
 道玄坂小路を通り過ぎて、ビルとビルの間のビルに入る。エスカレーターに乗り込み、3と5の間の数字を押す。割れた電子音ノイズがかろうじて目的地を告げた。
 店の名前である『SECRET』の文字は反転して、黒いドアの中央に掲げてある。他にはなにも書いていない。一見してどんな店なのかわからないが、ここはエミに紹介されたロックバーだ。ドアを開けると、冷気と狂気ロックミュージックが僕を出迎えた。五人ほど座れるカウンターとボックスが三つ、窓際に小さなステージがあり、バンドが演奏することもある。いつも常連で賑わっていた。エミもそのひとりだ。


 月に何度かエミを呼ぶようになり、僕は客でありながら友達という間柄にもなっていた。好きなミュージシャンが同じというのがきっかけだった。
 エミの本名は恋子こうこ)で、ココと呼ばれていた。 
 SECRET、通称シークの客のほとんどは音楽関係者だ。マスターの服装もロック系ではあるが、バンドはやらず聴くのが専門だという。三十代前後だと思うが、それはシークレットらしい。絶えずアルコールを煽り、カウンターの中でどっかり座っているマスターを横に、常連客らが勝手にカクテルやおつまみを作ることもある。

 明るい時間はランチもやっていて、僕もここで済ませるようになっていた。
 昼のマスターの動きは、夜と違って機敏だ。
 店内がなぜか健全に映るのは、長髪や金髪、ピアスにタトゥー、鋲付きの革ジャン……パンク系、ロック系、ロカビリー、ヘビーメタル……ジャンルを問わず音楽漬けの連中がいないせいかもしれない。
 バックミュージックが静かに流れ、制服姿のOLがいることも相まってそう見えるのかもしれなかった。店内をぐるりと見渡して聞いた。
「最近、ココの姿がないね」
「ココはそうだな。まあ、よくあるよ。一、二週間来なくなって、またふらっと現れたり。仕事が忙しいんだろ。休みを入れないって言ってるくらいだし」
「休みを入れない?」
「忙しいのがいいんだって。俺は忙しくないのがいいんだけど。開店当時、年中無休にしたことを後悔しているよ」
 そうは言っても、マスターは根っからの仕事人であり、人が好きなんだろうと思う。
 シークにくれば、自然とココに会えていた。確かにいつもスーツ姿で、普段着のココを見たことはない。指名があれば、仕事に向かう。言葉を交わすのは一瞬だけということはあるけれど、最後に笑顔を見てから気付けば一週間以上経っていた。