まだ見ぬ時刻(とき)_2
馴染んだ偽名が電話回線を通り抜けていく。
「いつもありがとうございます。申し訳ありません、エミはまだ休みなんですよ。ですがなんと本日、出勤予定日ではなかったのですが、クルミがいますよ」
テレビショッピングさながら誘導されて、希少性の原理に基づいた僕の言葉がまた電話回線をすばやく通り抜ける。
クルミは、今月この業界から足を洗う女の子だ。顔もスタイルも抜群な上に性格も良く、絶大な人気があった。引退の話を聞いてから予約で埋め尽くされ、指名は取れない状態だった。おそらく、クルミと会えるのは最後だろう。
それに、ココを紹介してくれたのはクルミだ。ココのことをなにか知っているかもしれない。
「今日は話をしよう」
と、僕は言った。
クルミの子どものころの話を聞いた。親が離婚して、母親は出て行ったけれど、メイドが何人もいたので寂しくなかったらしい。不自由のない生活ぶりを聞いていると、庶民とはかけ離れすぎていて、僕の思考は追いつかない。
「それだけのお嬢様だったのに、なにがあったの?」
「会社が倒産してね、父が蒸発したの。残ったのは借金だけ。私、父に売られたんだ。やり手ではあったからそういうとこ手際よかった。次の日にはこういう仕事させられてた。メイドさんたちの生活もあったから、私が逃げるわけにいかないと思って」
「仕事を辞めて、借金の方は大丈夫なの?」
「うん。ちょっとね、大仕事するんだ」
「大仕事?」
クルミは首を少し傾け、にこっと笑った。
「私、自由になれるのよ、やっと」
その表情はとてもきらびやかだった。
「エミちゃん、いい子でしょう? プライベートでも仲良くなったって聞いたよ。ふたりとも音楽が好きだから合うと思ったのよね」
「それが、最近会えてないんだ。仕事も休んでるみたいだし。なにかあったのかなって少し心配してる」
「そっか。ときどき、沈んじゃうときがあるのよね。それが過ぎるとケロッとして仕事に出てくるよ。今ごろ、飲んでいるんじゃないの? 例のお店で」
「シーク、知ってるの?」
「うちの店、ランチはシークなのよ。従業員が取りに行ってるの。前はよく食べに行っていた。エミちゃん、シークでアルバイトをしていたのよ。知ってた?」
僕は驚いた。
「今と全然違くてね、金髪のショートですっごくキュートだった。カウンターの上の壁に写真がいっぱい貼ってあるでしょ、そこに当時のエミちゃん写っているわよ」
写真が貼ってあるのは知っていた。会計中、ふと視界に入ってくる位置だ。ひと通り見たつもりでいたけれど、全然気が付かなかった。
「きっと大丈夫」
その言葉は、自身にも言い聞かせているように響いた。
「ねえねえ、いつか偶然再開したら一緒になろう」
そうだね、といつもの冗談に乗る。
「私、平凡な名字だから憧れるのよね、城石 。いいなあ」
「名字狙いなの?」
僕は苦笑いした。
「うん」
クルミはすがすがしく頷いて「相性はいいと思わない?」といたずらっぽく笑った。
「まあ、限定のブランドだから、購入者としては迷いなく乗せられちゃうかも」
「なんの話?」
「世界は広すぎるよ」
クルミは、大きな仕事を終えたら、海外に行くらしい。
「見つけてよ。私を」
「奇跡が起きればね」
帰り際、扉が閉まる寸前、声には出さず、なにかを言っていた。
僕は声に出して、クルミの唇の動きを真似てみる。
確証がない言葉がクルミらしいといえばそうであり、僕の心を和らげた。