ゆーーつ
誰もいない家。予定はもうなにもない。
ふと。ぼくは電車に乗った。生まれ育った町に行くのは、何年ぶりか覚えていないほどぶりだ。だから降りた駅に特別思い入れもない。振り向いて駅舎を確認したとしても、なんの感情もわかないと思う。ぼくのブーツは、黒いトーフみたいな石畳を踏む。ボルドー色のマーチンのつま先が少し傷ついていた。いつのまについたんだろって悲しくなる。悲しんでいるあいだに信号が点滅した。足元で白い花が揺れている。悲しみのマーチンによく似合う。花屋を眺める。オバーがよく来ていた
ぼくは、
「シロイハナ……」
とつぶやいた。店員が「白い花をお探しですか」と声をかけてきた。顔を見ると、ここの息子だった。ぼくが「小さいのがいい」と言うと、店内を見回した。あまり愛想もなく、かといって無愛想でもなく、ちょうどいい退屈感で、「こちらはどうですか?」と案内した。
「シロク……ナイ」
花は咲いてなかった。
「待雪草といいます。白くて小さな花が咲きますよ」
「マツユキソー」
ください。
「贈り物ですか?」と聞かれたのでぼくは首を振った。
「あ、あげるけど、袋にいれてくれればいい」
ってぼくの理想形を告げた。
マツユキソーを待っていると、花屋のおばさんが入ってきて、「いらっしゃいませ」とにこにこしながら言った。「ねえ、パンジー元気がないから見てあげてね」と息子に声をかけた。ぼくは驚いていた。おばさんは、白い杖をついていたから。そうだ、思い出した。交通事故に巻き込まれて、目が見えなくなったんだ。オバーが、「息子さんは写真家を諦めて家を継ぐような優しい子なのよ」って言ってた。
優しい子から理想形をもらって、再び歩くと、マーチンとマツユキソーが交互に視界に映った。途中、おいしそうな匂いがして、お腹がグーって鳴った。空からも飛行機がグーって鳴いた。見上げると、飛行機はとてもおいしそうな飛行機雲を作ってた。
商店街に入って、ぼくとマーチンとマツユキソーは立ち止まる。桜が名所のせいで、桜の形をモチーフにしたものが多い。その桜は墨色がかって珍しいらしく、おかげで、駅からここまでのくすぶった暗色に浸るたび、ぼくの神経は撫でられていく。
ウォールナんとか色の壁と、黒枠の窓。小さいころ、この店の前で遊んでいた。窓は高くて、飛び跳ねても中を見ることは出来なかった。今、中を覗いて見えるのは、看板と酒の瓶だけだ。真白く塗られた格子戸が開いて、中からロックミュージックが溢れてきた。
「おかえり、
“伯父さん”と言うと、怒るけれど、伯父なんだからしかたない。
「最後にこの町を見たかったの」
オバーの仏壇に花を置いてただいまをした。花っていっても、まだ花は咲いてない。どんな花が咲くのか、ぼくは知らない。伯父さんの奥さんが顔を出した。「奥さん」って呼ぶと、名前で呼んでよって言われるけれど、奥さんなんだからしかたない。
「楽しみね。とても可愛い花が咲くのよ」
「ジャムトーストよりも?」
「そうだね、ジャムトーストぐらいかな」
奥さんは言った。じゃあ、きっと可愛いね、そう告げて、
「ダイチは?」
と聞くと、奥さんは、人差し指を上に向けた。 ぼくは屋根裏部屋に上がった。オジーの趣味の部屋だ。大きい望遠鏡が置いてある。収納ボックスにはレコードが並べられていて、静かなミュージックが部屋全体を包んでいる。よくこの部屋で、夜を眺めた。 ダイチは、望遠鏡を磨いてた。
「今日は捕まえられるよ」
優しく言って、優しく笑う。ロマンチックなロマンスグレーのオジーだ。いろいろな神話をこの部屋で聞かせてくれた。自分の子供たちに変な名前を付けたり、ぼくたち双子の名前をつけたりしたのもダイチだ。ダイチはロマンスグレーなロマンチッカーなのだ。夜には変な名前のママンと普通の名前のパパンもやってきて、みんなでごはんを食べた。ママンは家に帰ってきたらと言ったけど、断った。ぼくがぼくでなくなっていく姿を見せたくはなかった。 きっとぼくは弱る。
伯父さんが車で送ってくれた。街が後ろに動いてぼくが進んだ。空はずっとそこにあって、さっき見たくじら座を描いた。目が見えなくなっても、こんなふうに暗闇の中に星を描けると思うと嬉しくなった。ぼくは夜の中を進んだ。ぼくはぼくが流れ星みたいだな。と思った。ラジオから自分のバンドの曲が流れてきた。伯父さんが歌った。ぼくも歌った。帰り際、「夢を叶えてくれてありがとうな」って言われた。伯父さんは小さいころからぼくに歌を教えては、プロになれよって言っていた。でもね、伯父さんを見ていると、楽しそうにギターを弾いて、時々ライブをして、仲間がいて家族がいて、それは幸せなことなんじゃないのかな。なんて。ぼくも意外とロマンチッカーなのかもしれない。
暗い部屋に帰る。
ジャムトーストはまだ、生きている。ただ少し、機嫌を損ねただけだ。