晴れのち濁り1
 休日の天気予報までは把握していない。
 電車を降りると、グレースケールの雲が空を占領して町に蓋をしていた。
 窒息しそうな気分で歩き出す。色味無い石畳がひっそりと呼吸を繰り返している。駅前通りを抜けて、花屋を曲がったあたりで小雨が降り出し、歩調を早めた。中華屋に差し掛かったころには本格的に降り出して諦めた。どうせもう濡れている。



 小さな商店街に看板が並ぶ。ここから車で五分ほどの距離に大型のスーパーがオープンしてから、揺れる暖簾も少なくなった。名所となっている桜のおかげで、まだ志気は途切れてはいない。
 兄が酒屋を継ぎ、客足が少しずつ戻ってきたという。商店街全体の意識が変わりつつある。思いがけず兄の才能が開花している。
 ウォールナット色に塗り替えられた木目の壁。入り口の右手には、黒枠のスリット窓が横向きで設けられ、目線の高さではあるが、中の様子をうかがい知るほどの役割はない。暗くなるとKISEKIのマーキーライトが淡く灯る。同時に、入り口左側を縦に陣取る「城石酒店さけてん」の文字がライティングされ、力強い書体が浮かび上がる。先代から継いだ由緒ある看板だ。
 真白い格子戸を開けると、激しいロックミュージックが流れてきた。



「ただいま」
 僕はこの場所を家の出入り口にしている。小さいころからの習慣だったので自然とそうなってしまった。
 父は、孫たちを連れて正規ルートを通るようになった。嫁はもちろん、母はなんとなく玄関なのだろう。
 変わらずここを使うのは他にもいる。姉だ。近くに住んでいて、子どもたちを連れてよく来る。こちら側に子供靴だけが並んでいるとき、看護師の姉が夜勤と判断して間違いない。今週末も賑やかになりそうだ。
「おかえり。とうとうカナも朝帰りか」
 開店準備をしていた兄は、物珍しそうな目を僕に残し、一度奥に引っ込み、タオルを手にして戻ってきた。受け取ったタオルで体を拭いながら、「友達と飲んでた」と無難な報告をする。まあ、嘘ではない。
「羽目を外すぐらいがちょうどいいんだよ、とくにカナは」
 真面目のレッテルを貼らされたのはネガイくん、君のせい。
「なあ、ネガ。1eamリームのビデオって全部持ってたよな」
「ミュージアムバーなので」
「STORMに興味があるんだけど」
 ネガは開けているのか開けていないのかわからないぐらいの細い目を、たぶん見開いた。瞳には濡れねずみの僕が映っていることだろう。
「おまえ、邦楽に興味を持つようになったのか。安心した。俺のせいで洋楽しか受け付けなくなっているのかと」
「STORMはかっこいいよ。出場してたって聞いたから観てみたいなって思ってさ」
 ネガの反応が鈍い。顔を見ると、呆れた表情で、たぶん瞬きをして、
「1eamにSTORMは出場してない」
 と言い切った。
「え?」
 僕は驚いた声を漏らしつつ、脱いだ靴下を鞄の上に掛け、片足立ちで足を拭く。
「だからな、カナ。かたよるのはよくない。お母さんが言うだろ、肉ばっか食べてないで、野菜も食べなさいって。俺がよく言うのは、仕事ばっかしてないで、女遊びもしなさいって。バランスなのよ。日本にもいいバンドはたくさんいる」
 声にならない声で肯定しつつ、もう片方の靴下を脱ぎながら、真面目に働いて風俗で遊ぶ比率を考えていた。少なくともモナ・リザが微笑みかけてくれるうちは曖昧にやりすごせるだろう。
「STORMは、入賞者のなかからひとりずつ選ばれて出来たバンド。レベルが高いやつらで構成されている。顔のレベルもな。売れないわけがない。腹が立つだろ。初めから完成されているんだよ。羨ましいだろ」
 膨大な量の雑誌やビデオテープが収納された棚の前に立つネガに向けて「それとその一年前のも」と追加注文する。ネガが振り向いた。僕は、「特別賞の女の子バンド」と説明を添える。疑問符を漂わせたそのフキダシに向けて、「可愛いって聞いてさ」とセリフをあてがう。
「こそあど、か」
 唐突な指示語に、今度は僕の疑問符が漂う。
「ココ、その、アンナ、どれみ、かれん。覚えやすいだろ」指を折るネガの口から、ココの名前が発せられるのは不思議な感じだ。 
「確かにかわいい。当時は誰がタイプか言い合ったもんだ。うちのリーダーはボーカルのアンナに惚れてさ、まあ相手にされなかったんだけど、それでもめげずにアタックし続けて、デートも何度かするほど仲良くはなったんだ。だけど、アンナが選んだ男は、ほかのバンドのイケメンだった。ギターのココもな。ケイがいたバンドのボーカルなんだけど」
 お揃いのタトゥーを思い出す。
 ネガは、
「結局、世の中イケメンなんだよ」
 と嘆き、巨体な体躯を縮こませた。
「ネガは誰がタイプだったの?」
 と聞くと、
「俺はその……奥さん一択だからな」
 とごまかした。