未知シルベ1
 消え入りそうな雲の表情がわずかに変化した。
 窓の隅にまで澄む空の青は、誰しも心の中にある、よどみなき善を陣取ってゆく。胎児の揺らぎにも似た安らかな心地に浸る。病院特有の気配のせいなのだろうか。


 ココは起きていて、背もたれに身を添わせ空を見ていた。僕とレイに気付き、視線を手元へと落とす。
「おはよう、ココ」
 返事はない。
 鉄の柵と白い枕が、戒律と清浄を以て僕を試している。
 なにを言葉にすればいいのだろうか。そもそもなにができるというのだろう、考えれば考えるほど『無』になっていく。雲が姿を消して、僕は空を見失った。
 様子を見にきたのか、看護婦が入ってきた。
「あらまあ、ずいぶんかわいい子ね」
 レイはあつらえむきの笑顔とありがとうを向ける。ネガに教わった物事がスムーズにいく方法だ。初めは「嘘になる」と渋っていたけれど、かわいらしい子どもを演じるようになった。
 看護婦がいなくなると、すぐに用件を述べた。
「ユキに頼まれた」
 ココは苛立ち混じりのようなため息のあと、
「なにを言っているの?」
 と不信を吐き捨てた。無理もない。
「俺だって面倒なことに巻き込まれたくないんだよ」
 僕はふたりのあいだに入って、
「信じられないかもしれないけれどレイの言うことは疑いようがないんだ。計太も驚いていた」
 と擁護する。


「疑うべきは、」
 レイが言う。
「手袋だった、この空の色と同じ」


 潤む瞳に、空の色と深い想いが反映している。心の中にひそむ黒を、レイの凛然さが溶かしていく。
「後悔してる、ユキはそう言っていた。わざと落としたんだよ、ココの気を引くために。奪いたかったんだ、空の色も」
 いつもより語気が強い感じがした。
 ふたりの会話には入れず、輪郭を縁取ることもできない僕は、鉄柵の冷たさにもなれず、ぬるい。
「ユキは……いるの?」
 詰まらせながらもココは、言葉を繋いだ。
「いつもはケイのそばにいる。ケイが、壊れそうなんだよ」
 レイの目が鋭くて怖い。

「あんたが壊すんだ」

 僕は、初めてレイを疑った。
 ココは両手で上掛けをぎゅっとつかんだ。細い指先が縋る先で、それはドレープがかったドレスのように華やいだ。
 涙がはらりと落ちていく。
 滲みゆく花びらが、儚く咲いて散る。
「誰もが苦しい。ユキも。だけど忘れないでほしい、ケイは今、確かに生きているということ」
 こくん、とココが頷いた。
「ケイの未来を見た。あんなに悲しい結末を見たのは初めて。困るよ、俺の道標だから」
「変えることはできるの?」僕の疑問に、もちろんとレイは答える。
「変わり続けることが唯一なんだ。俺は神じゃない。ただの夢かもしれないし。なんてったってまだかわいい子どもだからね」
 いつもの皮肉が出たことに安心すらする。
「もっと近くに頼れるやつがいる。おしゃべりじゃないけれど、飽きないよ。それに、絶対壊れない。暇つぶしのおもちゃ、与えていくよ」
 そう言って僕を見た。
「どういうことだよ」
 僕は苦笑いをして、でも不思議と気分は良かった。ココの表情も和らいだ気がする。
「ちょっと信じた」
 ココが涙を拭きながら微笑んだ。レイも笑顔を見せる。そこに嘘はないと思いたい。
「じゃあ俺行くね。ゴールデンなレトリバー待たせているし」
「下まで送るよ」
「え、いいよ」
 迷惑そうな顔に、
「まだ子どもなんだし。ゲームがオーバーになるよ」
 と過保護ぶる。
「まあね、看護婦に不審がられるしね」と承諾した。
「ありがとう」
 ココの言葉はいくらか花やいでいた。

 

「未来なんてろくなものじゃないと思っていた。ただ暗闇しかなかったのにルートが見えたんだ」
 計太のことだろう。
「今はそれに向かってなにをするべきかわかる。城石家は今、幸せしか知らないけれど、これから先、なにがあっても大丈夫って言ったよな。カナ、いつか暗闇に襲われたら光りを探して」
 なにを言いたいのかよくわからなかったけれど、わかった、と返事した。
「俺はもう、未来を見ない」
 そう言って車に乗り込んだ。

 空は、色がより濃くなっていた。雲がはっきりと点在している。唯一のシルシだ。