11mg 白
食後の苺を食べながら、思う。
「これって何色なんだろうな」
白。
ミルクがつぶやく。
「前、テレビの音楽番組で、誰かが言ってた。その人も味覚障害で、子どものころは味覚があったけれど、今はもう思い出せなくて、色で識別するんだって。それでね、甘いのは白って言ってたの」
「わかる気がするな」
「え、わかるの?」
ミルクは首をかしげた。
苺を飲み込む。どこか気怠い甘さが俺の記憶と一致する。心地のいい気怠さに浸る。聞こえてくるのは、声。歌声かもしれない。静穏を切り裂いて届く旋律は、心の奥を締め付ける。鋭くて痛くて、優しい。永遠に続けばいいのにとさえ願う。
決して、橘さんから聞こえてくる、だみ声の鼻歌ではない。ミルクが風呂に入り、食器を片づけている橘さんに聞いた。
「社長ってどんなやつ?」
「どんな? うーん。哉多みたいなやつ。女に興味がないのよ。ちょっと種類は違うかな。性欲はあるけれど、恋愛には興味がない感じ。仕事にしか興味がない。いい作品を作ろうってそればかり。そういう意味では、私も気持ちよく仕事ができたのよねえ」
「仕事したことあるのか」
「結構な監督さんなのよ。ミルクちゃんの計画に、私も誘われたことがある。男が産まれたらどうするの? って聞いたら、産み分け法のできる最高の医者を知っているって言うのよ。男だったら男優にでもなってもらう、女が出るまで産めって、ありえないでしょ。私、整形よっていったら、あっさり億が消えたわ」
「欲しかったのかよ、金」
「まさか。私は、好きな人はずっとひとりよ」
「ねえ、加代子さん」
加代子さんは、洗う手を止め振り向いた。
「なによ。気持ち悪い」
と、苦笑いする。
「もういいよ」
「もういいっていうなら、そこはお母さんでしょ」
「それは断る」
「なんなのよ」また食器を洗い出す。「なによ、橘くん」
「親父、死んだよ。親父の姉とかいう人が最期に来ていた」
「そうなんだ」
「前に一度だけアンタのこと話してた。……後悔してたってさ。過去がなんであろうと、守るべきだったって」
「ふーん。ありがとね。あの人のそばにいてくれて」
何年振りだろう。こんな穏やかな気持ちで母親と会話をするのは。許すとか許さないとか、そんなことより、俺は守らなければいけない気がした。この人とミルクのことを。
親父は後悔を見つめていたのだろか。
俺は、最期に何を見つめるのだろう。
湯船に浸かりながら天井を見つめていた。橘さんとミルクの楽しそうな笑い声が響いている。それを聞きながら錯覚する。このままミルクとここで暮らす日常を思い描く。湯船から出て体を洗うと、逃亡者の淡い夢が排水溝に流れていった。
突然、橘さんの叫ぶ声がした。様子が変だ。ドン! と何かがぶつかる音がして、俺は慌ててタオルを体に巻きつけながら廊下に飛び出る。
うずくまる橘さんがいる。駆け寄ると、俺は男に押さえつけられた。この前のやつらか。
「おい、俺の母親になにしてんだよ」
「こいつ橘早妃なんだろ。まだ全然いけるじゃねえか。社長に好きにしていいって言われたしな」
もう一人の男が、橘さんに手をかけようとする。俺は、押さえつける男を突き飛ばして、母親に寄る男を殴りつけた。
「哉多、やめて」橘さんは、俺の前に身を呈し、「いないって言ってるじゃない!」と声を荒げた。男が俺を殴り返す。ミルクはどこにいるのだろう。ちゃんと隠れているだろうか。もうひとりの男が加勢してきた。今の俺には、この人ひとりを守ることだけで必死だ。けれど、どうあがこうと急に強くなれるわけでもない。どうしたらいい。どうしたら。
「へえ。『俺の母親』ね。そんな言葉吐けるんだ」
ミルク?
空気が一瞬にして変わった。白いスカートがふわりと横切り、荒れついた空間を遮る。手に持っていたヒールを玄関先に置き、足を通すと振り向いた。
「遅かったわね。待ちくたびれちゃった」
ひとりの男はすぐにミルクの隣に立ち、ミルクのバッグと帽子を持った。もうひとりの名残惜しそうな視線……に、捕らわれた橘さんを、俺は引き寄せた。
ミルクは言う。
「昔は伝説でも、今はただのおばさんよ」
「ミルク!」
俺は叫んでいた。ミルクは顔色ひとつ変えない。
「私の体のほうがいいでしょう。この前みたいに、また相手役になってちょうだい。私からお父さんに頼んであげるわ」
ミルクは手を伸ばす。男は操られているように、ミルクのそばに向かう。
「ミルク!」
もう一度俺は叫んだ。ミルクが俺を見る。
「私があなたなんか相手にすると思った? 童貞君をからかうのも面白かったわ」
冷淡な笑みが、俺を蔑む。立ち上がろうとした俺の腕を、橘さんが掴んだ。ミルクは最後まで気の強い視線を残し出て行った。
「平気か?」
「平気よ。社長にいっぱい食わせられたわ」
「あいつら、ミルクが呼んだんじゃないのか?」
「ミルクちゃんは私たちを庇ったのよ。そんなこともわからないの。だからアンタ童貞なのよ。ただのおばさんなんて言われてドキッとしたけれど。さすがサイボーグ女優ね」
俺は頭を抱えた。操られていたのは俺のほうか。まんまと騙され、ミルクを疑ってしまった。
「やだ、床びちょびちょじゃない。ここ拭いておくから、服着てきなさいよ。風邪引くわよ」
脱衣所に押し込められ、体に巻きつけたはずのタオルを探すが、俺の下半身は開放に満ち溢れていた。新しいタオルで体を拭き、服を着ながら萎えていた。ミルクの強気の視線に、圧倒的に委縮していた。あれが女優というものなのか。ミルクであり、ミルクではない女に、打ちのめされていた。あんな助けられ方なんて、萎えすぎる。
「これって何色なんだろうな」
白。
ミルクがつぶやく。
「前、テレビの音楽番組で、誰かが言ってた。その人も味覚障害で、子どものころは味覚があったけれど、今はもう思い出せなくて、色で識別するんだって。それでね、甘いのは白って言ってたの」
「わかる気がするな」
「え、わかるの?」
ミルクは首をかしげた。
苺を飲み込む。どこか気怠い甘さが俺の記憶と一致する。心地のいい気怠さに浸る。聞こえてくるのは、声。歌声かもしれない。静穏を切り裂いて届く旋律は、心の奥を締め付ける。鋭くて痛くて、優しい。永遠に続けばいいのにとさえ願う。
決して、橘さんから聞こえてくる、だみ声の鼻歌ではない。ミルクが風呂に入り、食器を片づけている橘さんに聞いた。
「社長ってどんなやつ?」
「どんな? うーん。哉多みたいなやつ。女に興味がないのよ。ちょっと種類は違うかな。性欲はあるけれど、恋愛には興味がない感じ。仕事にしか興味がない。いい作品を作ろうってそればかり。そういう意味では、私も気持ちよく仕事ができたのよねえ」
「仕事したことあるのか」
「結構な監督さんなのよ。ミルクちゃんの計画に、私も誘われたことがある。男が産まれたらどうするの? って聞いたら、産み分け法のできる最高の医者を知っているって言うのよ。男だったら男優にでもなってもらう、女が出るまで産めって、ありえないでしょ。私、整形よっていったら、あっさり億が消えたわ」
「欲しかったのかよ、金」
「まさか。私は、好きな人はずっとひとりよ」
「ねえ、加代子さん」
加代子さんは、洗う手を止め振り向いた。
「なによ。気持ち悪い」
と、苦笑いする。
「もういいよ」
「もういいっていうなら、そこはお母さんでしょ」
「それは断る」
「なんなのよ」また食器を洗い出す。「なによ、橘くん」
「親父、死んだよ。親父の姉とかいう人が最期に来ていた」
「そうなんだ」
「前に一度だけアンタのこと話してた。……後悔してたってさ。過去がなんであろうと、守るべきだったって」
「ふーん。ありがとね。あの人のそばにいてくれて」
何年振りだろう。こんな穏やかな気持ちで母親と会話をするのは。許すとか許さないとか、そんなことより、俺は守らなければいけない気がした。この人とミルクのことを。
親父は後悔を見つめていたのだろか。
俺は、最期に何を見つめるのだろう。
湯船に浸かりながら天井を見つめていた。橘さんとミルクの楽しそうな笑い声が響いている。それを聞きながら錯覚する。このままミルクとここで暮らす日常を思い描く。湯船から出て体を洗うと、逃亡者の淡い夢が排水溝に流れていった。
突然、橘さんの叫ぶ声がした。様子が変だ。ドン! と何かがぶつかる音がして、俺は慌ててタオルを体に巻きつけながら廊下に飛び出る。
うずくまる橘さんがいる。駆け寄ると、俺は男に押さえつけられた。この前のやつらか。
「おい、俺の母親になにしてんだよ」
「こいつ橘早妃なんだろ。まだ全然いけるじゃねえか。社長に好きにしていいって言われたしな」
もう一人の男が、橘さんに手をかけようとする。俺は、押さえつける男を突き飛ばして、母親に寄る男を殴りつけた。
「哉多、やめて」橘さんは、俺の前に身を呈し、「いないって言ってるじゃない!」と声を荒げた。男が俺を殴り返す。ミルクはどこにいるのだろう。ちゃんと隠れているだろうか。もうひとりの男が加勢してきた。今の俺には、この人ひとりを守ることだけで必死だ。けれど、どうあがこうと急に強くなれるわけでもない。どうしたらいい。どうしたら。
「へえ。『俺の母親』ね。そんな言葉吐けるんだ」
ミルク?
空気が一瞬にして変わった。白いスカートがふわりと横切り、荒れついた空間を遮る。手に持っていたヒールを玄関先に置き、足を通すと振り向いた。
「遅かったわね。待ちくたびれちゃった」
ひとりの男はすぐにミルクの隣に立ち、ミルクのバッグと帽子を持った。もうひとりの名残惜しそうな視線……に、捕らわれた橘さんを、俺は引き寄せた。
ミルクは言う。
「昔は伝説でも、今はただのおばさんよ」
「ミルク!」
俺は叫んでいた。ミルクは顔色ひとつ変えない。
「私の体のほうがいいでしょう。この前みたいに、また相手役になってちょうだい。私からお父さんに頼んであげるわ」
ミルクは手を伸ばす。男は操られているように、ミルクのそばに向かう。
「ミルク!」
もう一度俺は叫んだ。ミルクが俺を見る。
「私があなたなんか相手にすると思った? 童貞君をからかうのも面白かったわ」
冷淡な笑みが、俺を蔑む。立ち上がろうとした俺の腕を、橘さんが掴んだ。ミルクは最後まで気の強い視線を残し出て行った。
「平気か?」
「平気よ。社長にいっぱい食わせられたわ」
「あいつら、ミルクが呼んだんじゃないのか?」
「ミルクちゃんは私たちを庇ったのよ。そんなこともわからないの。だからアンタ童貞なのよ。ただのおばさんなんて言われてドキッとしたけれど。さすがサイボーグ女優ね」
俺は頭を抱えた。操られていたのは俺のほうか。まんまと騙され、ミルクを疑ってしまった。
「やだ、床びちょびちょじゃない。ここ拭いておくから、服着てきなさいよ。風邪引くわよ」
脱衣所に押し込められ、体に巻きつけたはずのタオルを探すが、俺の下半身は開放に満ち溢れていた。新しいタオルで体を拭き、服を着ながら萎えていた。ミルクの強気の視線に、圧倒的に委縮していた。あれが女優というものなのか。ミルクであり、ミルクではない女に、打ちのめされていた。あんな助けられ方なんて、萎えすぎる。
11mg