8mg 解

 


 また夢を見た。
 白い夢。
 なにもかもが白くて……
        白くて……
 白に赤い花びらが散っていく。 

 俺の体内から消失する血なのかもしれないし、割れたカプセルから散る液体なのかもしれない。



「哉多!」
 中川の声がする。同時に、西脇さんの背が視界を塞いだ。助けを呼びに行っていたのか。もう立っていることができず、その場にへたりこんだ。
 周りの音が、少し、遠くなった、気がする、
 音が、波紋のように、広がる、
 自分の呼吸音、
 息遣い……西脇、さん、の。
 離れていきそうな意識を必死に食い止めながら、西脇さんの背を探した。
 その強さでさえも、俺は疑いたい。絶対的な強さは、一ミリの隙間も与えない。さきほどまでの威勢を失った三人は、情けなく逃げていく。
「尋常じゃない無茶ぶりだな、哉多」
 振り向いた西脇さんは、唇の片方を上げた。端に光るピアスを見つめながら、
「尋常じゃ、ない人に、言われ、たく、ない、な」
 と、息絶え絶えに告げた。ちゃんと答えられているのかわからない。
「レンジ、救急車呼んだのか?」
 呼んだ、と遠くから声がする。道路にでも出て待っているのだろうか。 


 西脇さんの白いシャツに、血が染みていく。
 けがしてはいけない、
 白を赤では。 
 西脇さんがなにか言っている。
 ピアスが光っている。
 俺は、光に飲み込まれた。


 白い……もや?
 体が動かない。ここは現実なのだろうか。唾液をゆっくりと喉の奥に追いやったが、なんの味もしなかった。もやが俺を取り囲もうとしている。
 夢か?
 もやが俺の体を包んだ。体がすうっと楽になる。見下ろすと、俺がいた。俺を見つめながら理解した。俺は、死んだのか。
 どこからか話し声が聞こえる。声の方向に集中すると、空間が意思を持っているように俺を取り巻いた。俺が移動しているというより、空間が移動している感じがした。壁が迫りくるが、不思議とぶつかるという危機感もない。突如として別の部屋が目の前に現れた。医者が難しい顔をして、難しい言葉を発している。看護師が慌ただしく動き出す。どうやら輸血の準備をしているらしい。「無駄だよ」俺のつぶやきが、もやに吸収されていく。どんどん、もやが濃くなって、あたりは真っ白になった。


 白い花が散る。


 十二歳と四か月の夏の終わり。初めて、橘早妃を知った日。俺は家を飛び出した。走って走って、ようやく足が動かなくなって、立ち止まった。あまりかっこいいとはいえない、町のシンボルをかたどった街灯が、仰々しく辺りを照らしている。
 その日の田舎の繁華街は、いつもより混んでいた。黒い服装の団体がやたら多い。なにかの宗教かとも思ったが、足元に落ちているビラで、ロックバンドのライブがあることを知る。
 こめかみを汗が伝い落ちる。なにをやってるんだろと自答して、振り向いたとき、肩がぶつかった。見るからに悪そうなやつらが三人、立ちはだかった。見るからに弱そうな俺の謝罪を求めている。十二歳の俺は、まだ体は小さいが、やはり俺だ。「避けることもできねえのか。のろいな」と悪態つく。通行人たちが、関わりたくないとばかりに通り過ぎる。原付バイクが到着して、仲間がひとり増えた。「なにやってんの。面白そう」と、後ろに乗っていたやつが下りて、合計五人に増殖した。連れられた路地裏の一角には、おあつらえ向きの空き地があった。背中を蹴られ、俺は地面に叩き付けられた。俺の下で、白い花が散っていった。
 俺は抵抗せずに殴られ続けた。やつらは楽しんで、笑っている。
 痛みが俺を罵る。ぐるぐると視界が渦巻いて、そこにいるやつらが全員、橘早妃に変わった。橘早妃が俺を取り巻く。お前はAV女優の子なんだと唾を吐く。汚い体から産まれたんだと踏みつける。視線が俺を蔑んでいる。赤い唇が喘ぎ、俺を壊していく。そうだ、俺を壊してくれ。俺を切り刻めばいい。そうすれば俺は再生できない。俺の血液型は特殊だから、誰の血でさえも、俺は再生できないはずだ。この花のように。
 カワイソウ。
 哀れみは弱き者へ葬る、強き者の自己陶酔だ。
「いいもんみっけ」
 誰かが口にした。掴んだビール瓶の底が、壁に打ち付けられ、割れた。
「可哀相」
 誰かが自己陶酔した。強者の靴底が俺の胸を踏みつける。
「うっ……」
 弱者の力無い声が漏れる。強者は、ビール瓶を振りかざした。目を閉じて、再生できない俺を望んだ。けれど、一向にその気配がない。目を開けると、ビール瓶を持つ手を、誰かが制御していた。長袖の白いシャツを着ているのはわかった。さっきまで、黒づくめの団体を見ていたからやけに新鮮に思えた。逆光で顔は見えない。ダサい街灯が愛おしい。
「可哀相なのはお前ら」
 甘ったるい声がして、俺を踏み潰していた男が吹き飛んでいった。ほかのやつらも一瞬でその場に蹲っている。残ったひとりが慌てて原付バイクにまたがって逃げていく。暗がりの中、白シャツの男の背を見つめる。
「立てるか」
 その声に、俺はなんとか立ち上がる。
「さて。俺らも逃げるか」
「え? あの」
「警察がくる。俺はこっち、お前あっちな」
 礼を言う間もなく男は消えた。
 路地を抜けると、シンボルの街灯が俺を迎えた。ダサくてまぶしくて、格好悪かった。
 
 
 
 
 遠く、俺の名を呼ぶ声。気怠いような、甘い声。心地が良い。ずっと浸っていたいような。
「哉多」
 はっきりと声が聞こえて目を開ける。ぼんやりと見つめた先に漂う“もや”が、すうっと消えていった。
「大丈夫だ」
 西脇さんの、声。俺は再び目を閉じ、囁いた。
「めずらしいね」
「なにがだ?」
「同じ血液型の人に初めて会った」 
「俺もだ」
 そんなやりとりをして、俺はまた眠ってしまった。 



 そこは心地のよい場所だった。
 白い世界は、一面に白い花が咲き乱れる視界だった。 
 花が揺れている。
 花びらが舞っている。
 キヨラカナ 物質



 目が覚めると、橘早妃がいた。
 ヨゴレタ 地球上生物
「それだけの減らず口が言えるなら大丈夫ね」
 俺は自分に置かれている状況を把握した。
「誰かに会ったか? 会社のやつらとか」
「会ってないわ」
「誰かがくる前に帰ってくれよ」
「わかってるわよ」
 わかっている、汚れているのは、俺だ。電子レンジの内側だ。俺はどうなろうと、死んでもよかったんだ。
 瞼を閉じた。もう一度、白い世界に行きたかった。




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